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2006年11月

2006年11月30日 (木)

鳥獣人物戯画

この2枚の絵を見てください。

_1_s _3_s
『鳥獣人物戯画』の丙巻に描かれた囲碁と将棋の絵で、左が囲碁、右が将棋を指している場面です。鳥獣人物戯画は、12~13世紀に描かれたとされ、これが事実であれば『二中歴』(将棋のもっとも古い資料がある) から『普通唱導集』(職業ごとの念仏の中に、将棋指しに向けられたものがある) とほぼ同じ時期ということになります。

ウェブに載せるために画像サイズをかなり小さくしましたが、囲碁盤と将棋盤の描き方に、大きな違いがあることがわかると思います。つまり、囲碁盤は脚がある立派なものとして描かれているのに対して、将棋盤は脚どころか、盤の厚みも描かれていません。
これはどういうことかというと、当時は将棋盤がなく、地面に直接線を引いて盤の代わりをしていたのではないか、と推測されます。あるいは、紙のような薄いものを使っていたか。

二中歴の将棋は、大きさが書かれておらず、8マスだったか9マスだったかが議論されていますが、将棋盤が見つかって論争に終止符が打たれる、という可能性は低いように思います。

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2006年11月26日 (日)

将と象の動きの謎

日本将棋の金将と銀将について、動きを以下のように分解してみました。

  • 金将 = 前後左右に1マス + 前方3方向に1マス
  • 銀将 = 斜め四方に1マス + 前方3方向に1マス

ということは、古い時代の将棋類において、将 (金将の祖先) は前後左右に1マス、象 (銀将の祖先) は斜め四方に1マスずつ動けた、と考えることになります。

ところが、世界の将棋類を見ると、チェスのクイーンと日本将棋の金将を除いて、「将」の駒は斜め四方に1マスずつ動くようになっています。「象」の駒はいくつかのバリエーションがありますが、斜めに2マス動くものが多いようです。

これは非常に悩ましい問題で、金将の動きの根幹に関わってきます。
「将」の駒が縦横に進むとされているものは、例によって「玄怪録」だけ。ここには「上将は四方に行け」となっており、唐代の将棋は「将」が前後左右に動いたのかもしれません。それがどこから伝来し、そしてなぜシャンチーでは採用されなかったのか、疑問は多いわけですが。

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2006年11月23日 (木)

日本将棋の祖先は?

日本将棋はどこから来たのか。この素朴な疑問に、まだ答えは出ていません。

有力な説としては、中国大陸からの伝来と、東南アジアからの伝来があります。前者は古くからいわれてきたもので、将棋文化を高めようとする俗説なども含まれています。後者は日本将棋 (「二中歴」の将棋) と、 シャンチー (中国象棋) ・マークルック (タイ将棋) を比較して、タイ将棋との類似点を多く見いだしたことに理由を求めています。

平安時代の終わりには将棋の駒が発掘されていますから、それより前には将棋が伝来していたことになります。その頃の文化は、ほぼすべてが中国・朝鮮より伝来していますから、将棋だけが東南アジア由来のものであったと考えるのは難しいと思われます。

将棋が中国伝来であるとして、今度はシャンチーと日本将棋との相違点がなぜ発生したかを説明する必要があります。私は以下のような仮説を立てています。

9世紀から10世紀 (平安時代前半) にかけて、中国大陸に将棋の原型となるものがあった。それは現在のシャンチーとは異なり、マス目に駒を置く形のものであっただろう。それが日本に伝来し、駒の名称と形が変わって平安将棋となった。
一方中国大陸では、駒を交点に配置するような大きな変化が起こり、その後も実際の戦争の戦略をとりいれたルールの変更 (河と九宮の追加、砲の駒の追加) がなされ、現在のシャンチーとなった。

Photo 左に、中国から日本に伝来した当時の将棋の想像図を入れています。
盤は中国・日本が左右対称の美を重んじていたことから、「将」が中央に来る奇数列とし、9×9マスとしました。
駒はシャンチーと同じ円板型で、1文字が書かれているもの。書かれた文字はシャンチーにあわせて中央から「将・士・象・馬・車」としましたが、チャトランガでの駒の意味からすると「王・将・象・馬・車」かもしれません。

ここまでは想像ですが、裏付ける資料になりうるものとして、9世紀に牛僧孺によって著されたとされる「玄怪録」という怪奇小説があります。ここの将棋の描写とされるものが、この想像図に近いものとなっています。

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2006年11月21日 (火)

桂馬と香車

日本将棋の桂馬と香車は、前にしか進めない駒になっています。

         
       
         
         
       
       
         
         

これがチェスになると、ナイト (桂馬に相当) ・ルーク (香車に相当) が四方八方に動けます。

     
       
     
     
       
       
       
       

チェスに限らず、世界の将棋類のほとんどが、四方八方に動ける桂馬と香車になっています。
この違いは何か。
木村義徳九段は、『持駒使用の謎』で、チャトランガ (将棋の起源とされる、インドのボードゲーム) の馬・車は元々は前方にしか動けない駒だったのが、ある時のルールの修正で四方八方に動けるようになった。それを世界の将棋類が追随したが、日本将棋だけは修正しなかった、としています。

古い中国の寓話に、『玄怪録』というものがあります。ここに、宝応元年 (762年) のこととして、夢に出てきた将棋の話が出ています。そこには駒の動きが出ていますが、日本語に訳すと、

天馬は斜めに三歩飛んで止まれ
上将は四方に進め
輜車 (ししゃ=軍用の荷車のこと) は真っ直ぐ進んで引き返すな
六甲の順序は乱れるな

とあります。天馬が今の桂馬、輜車が香車に相当すると思われます。
『玄怪録』の信憑性は疑わしい部分もありますが、古い時代の将棋は馬・車が前にしか進めなかったと考えると、日本将棋との共通点も見いだせるかもしれません。

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2006年11月19日 (日)

二中歴の将棋駒の名称

現在の将棋の駒は、玉将または王将・飛車 (成ると龍王) ・角行 (成ると龍馬) ・金将・銀将 (成ると成銀) ・桂馬 (成ると成桂) ・香車 (成ると成香) ・歩兵 (成るとと金) の8種類。
「二中歴」の記述の時点ですでに、玉将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵の6種類は存在していました (成り駒の名前はなく、金将になるとだけ書かれている) 。

これら6種類の駒について、文字ごとに分割してみます。
上の文字を取ると、玉・金・銀・桂・香・歩。
下の文字を取ると、将・将・将・馬・車・兵。
このことはすでに日本中将棋連盟のサイトなどで紹介されているのですが、上の文字は歩を除いて、仏教の宝物に関係するものだと考えられています。下の文字は、将棋の源流とされるチャトランガにすでにあった、王・将軍・象・馬・車・兵の駒を漢訳したものでしょう。

「王」と「象」が消え、「将」が3種類。
平安時代、「王」は天皇を示す言葉でもありましたから、駒に当てるのは憚られたのかもしれません。あるいは、「王」と「玉」の文字が似ているというのも理由かもしれません。
「象」は、平安時代の日本人には象が何者であるか知らなかったために、駒から象の名称を捨てたのかとも考えました。ところが、橿原考古学研究所附属博物館 (興福寺出土駒を展示している施設) で、古墳時代の副葬品から象をかたどった馬具が出土しており、象が知られていなかったとはいえないということになります。

そして、成り駒はすべて金将であり、成る前の駒による区別はありませんでした。現在、区別するためにつけられた名称は「成銀」「成桂」「成香」「と金」。前3者はもとの駒に「成」をつけただけ、「と金」は略字の形状からですから、宗教的、伝説的、あるいは駒の働きを示すような名前のいずれでもありません。
これは、成り駒の名称がもとの駒の区別のため以上の意味を持たないということになりますし、成り駒に名称がついたのがごく新しい時代であったということもいえるでしょう。

要するに、成り駒に区別の必要がなかった時代が長らく続いていたということです。卒業論文には書きませんでしたが、持ち駒制度がかなり新しい時期に導入されたことの傍証にもなるのではないでしょうか。

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2006年11月18日 (土)

金将と銀将

卒業研究ではなくなってきたので、タイトルも変えてみました。「日本将棋成立の謎」ですが、いまいちしっくり来ていないかな……。(木村義徳先生の著書ともかぶりますし)

まず業務報告。
前回の酔象入り詰将棋の話題は、「詰将棋おもちゃ箱」様にリンクしていただけたようです。
ありがとうございました。

今回は金将と銀将の動きを取り上げてみます。今さら説明するまでもありませんが、金将と銀将の動きは下の図のようになっています。

   
   
 

将棋を覚えた頃から、なぜこのような動きになっているのだろうという疑問はありました。そのときに思ったのが、以下の公式。

  • 金将の動き = 前後左右 + 前方3マス
  • 銀将の動き = 斜め四方 + 前方3マス

図にするとこのような感じですね。

   
=
   
   
+
   
     
   
 
=
 
   
 
+
   
     

伝来からの流れという研究の中でこの公式を検討すると、元々の金将・銀将は、縦横あるいは斜めにしか進めない動きだったのではないかと考えられます。それが、前3方向への利きを与えるようにルールが変更され、現在の動きが完成したという仮説を立てることができます。
「二中歴」にある将棋では、金将と銀将の動きはすでに現在と同じものです。これより古い資料は出ていないので、上記の仮説も推測の域を出ないわけですが……。

マークルック (タイ将棋) の「コーン」(象ないしは銀将に相当) の駒が、日本将棋の銀将と同じ動きをするのだそうです。これは、象の4本の脚と鼻を示しているといわれています。このことを根拠のひとつとして、日本将棋は東南アジアから伝来したと考えている人もいます。
今回の仮説に基づくと、銀将とコーンが同じ動きをするのは、「偶然」だったということになります。成り立ちが異なるのでどちらかがどちらかに影響を与えたというわけではなく、それぞれの国で将棋が進化した結果、同じ動きをする駒が現れた、ということです。

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酔象のある詰将棋

今回の卒業研究で、やり残したことが結構あります。やはり、半年・2万字という制約のもとでは、書ききれないことも多くありました。
本日以降は、そういったやり残した考察を書き残していく場として、このブログを活用していきたいと思います。

論文にも書きましたが、今回は、1707年に発行された『象戯綱目』に掲載された小原大介作の詰将棋を取り上げます。
図1 (番号は振っていませんが、左から図1、図2、図3、図4とします) が掲載の出題図で、9六の位置に酔象があるのが特徴。

12_13_14
▲1七桂打 △1六玉 ▲2八桂 △2七玉 ▲5四馬 △8七酔成!(図2)

王手を放置して酔象を成ります。これで玉将が取られても太子を逃げればよくなります。以下、

▲2七馬 △8八太 ▲7八金 △9七太 (図3) ▲9八香 △8六太 ▲7七金 △8五太
▲7六金 △8四玉 ▲8九飛 △9三太 ▲9四香 △同太 ▲8五金 △8三玉
▲3八馬 △8二太 ▲7四金 △8三歩 ▲同金 △7一玉 ▲7二金 △同金
▲8一飛成 △6二太 ▲6一金 △5二玉 ▲5一金 △4二太 ▲4一金 △3二太
▲6五馬 △2二太 ▲7二龍 △6二歩 ▲2三歩成 △1一太 ▲1二金 (図4)

まで45手詰め。
歩が2枚余りますが、昔の詰将棋は現在ほど厳密な制約がなかったようです。
ここで10手目、△9七太としたところに注目。図3です。
この時点での持ち駒は香車1枚ということになっていますが、4手前に玉将も取っています。この玉将を打つことができれば、▲8七玉打!で1手詰めです。
ということは、この詰将棋では玉将は持ち駒になっていない、ということになります。

酔象を含んだ42枚制の将棋を考えたとき、この詰将棋と同じように、取った玉将は持ち駒とできないというルールがあったかどうか、そこまではわかりません。王手で玉将を打つのが禁じ手だったかもしれませんし (先に取られますし) 、玉将は打てないが酔象は打てたというルールだったのかもしれません。あるいは、酔象がなくなって150年がたっているので、酔象や玉将を「打つ」という概念がなかっただけかもしれません。

今ここで結論は出せませんが、研究材料となるのではないでしょうか。

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2006年11月13日 (月)

今後のこと

勝手に将棋トピックスの反響は、やっぱりすごいです。
このブログにもアクセス解析を入れているのですが、それまでの10倍の閲覧者になっています。
当然、初めてこのブログを読まれる方も多いわけですが、そういった方々に継続して読んでもらえるような何かを提供しないとと、妙なプレッシャーを感じています (汗) 。

といっても、ここは将棋の歴史について考えたことを書くために作ったブログ。方針をぐるっと変えるのも違うような気がするので、将棋の歴史についてもっと幅広く、ということになると思います。
将棋の歴史研究は、まだわかっていないことのほうが多いくらいの分野です。もっとも古い資料が11世紀頃のもので、その頃にはすでに現在の形の駒を使い、飛車角と持ち駒がない将棋が指されていたとされています。
でも、そのような将棋がある日突然現れたとは考えにくく、もっと単純なゲームが変化していったものとするのが自然です。また、将棋は日本で生まれたものではなく、海の向こうで生まれたものが日本に伝わったのだろうと考えられています。

ということで、将棋伝来から現在の形になるまでの変化について、研究の種になりそうなことを、今後は書いていこうと思います。
今後ともよろしくお願いします。m(_ _)m

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2006年11月12日 (日)

「勝手に将棋トピックス」で紹介されました

昨日公開した論文の原稿ですが、3か所のネット掲示板に宣伝してきました。
ページへのアクセス数などを見ていると、それなりに効果があったことがわかります。

今日になってまた一段と伸びていたので、何があったのかと思ったのですが、「はてなダイアリー」の「勝手に将棋トピックス」という将棋関連の話題を集めたページで、私の論文のことが紹介されていました。記念にトラックバックもしてあります。

そちらのページで

Wikipediaで将棋関係の編集を頻繁になさっている方

という表現がありましたが、これについてちょっと説明。Wikipedia (ウィキペディア) という誰もが参加できるネット上の百科事典プロジェクトがあり、2年くらい前から参加しています。新しく記事を書くだけではなく、誰かが書いたものを加筆したり、修正したりも行えます。
いろいろな記事に書き込んでいますが、その中でも将棋関連は多いですね。「将棋」の歴史部分は私が追記しましたし、「持ち駒」は新規に作成しました。
いまのところ、「持ち駒」に自分の意見を反映させるつもりはないし、そうすべきではないということになっています。反映させるとしても、学会誌などに私の論文が掲載されて、認知されてからですね。

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2006年11月11日 (土)

論文を公開します

ようやく、ようやくこの日がやってきました。

Tamago915のウェブサイトから、提出した論文を見ていただけるようになりました。「卒業論文」のリンクをたどってください。
新説とはいえないものの、自分なりにまとめた結果、決して主流とはいえない結論になったかもしれません。それゆえ「やっぱりここはおかしいんじゃないの?」と思われるところは出ると思いますが、批評は甘んじて受けたいと思います。

ご意見など、残していただければ幸いです。よろしくお願いします。

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2006年11月 5日 (日)

総会のお知らせ

今日、遊戯史学会の総会のお知らせがきました。
12月2日の土曜日、渋谷の青山学院大学内で行われます。佐伯先生が青山学院の教授ですので、その縁もあるのだとおもいます。

講演が2つあって、高橋先生が「伝承遊戯の現状」、増川先生が「将棋の起源--4人制か2人制か」をお話しされます。とくに増川先生のお話は、自分の研究範囲にも重なる部分で、ぜひとも聞いておきたいところです。
あと、卒業論文の原稿のレイアウトを遊戯史学会向けに書き直したものをお渡ししたいので、当然今回は参加させていただきます。

ということで、東京までの切符をとってきました。往復夜行バスでの移動も考えたのですが、前日が仕事の納期になっており、バスに間に合うように帰れない可能性もあるので、行きはそれ以外の手段で。一番安くすむのは、神戸まで出てスカイマークの空路を使うルート。スカイマークが1万円 (平日だと6500円か……) で、新幹線より安いんですよね。
「学会への出席」ということで学割をもらって、神戸までのバスと、帰りの夜行バスをさらに割引。ほんとケチです (笑) 。

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2006年11月 4日 (土)

遊戯史学会総会

まだ連絡はなく、遊戯史学会のウェブサイトの記載だけなのですが、来月に総会があるようです。
徳島に住んでいて、例会や総会はほとんど東京で行われるので、毎回参加するのは難しいと思いますが、今回は事情が許す限り参加してみようかと考えています。というのも、せっかくできた卒業論文を、遊戯史学会のほうでも見ていただきたく(できれば会報への掲載希望)、論文を持って総会に参加して増川先生に手渡しするのがいちばん早いかな、と思うわけで。

ただ、上のサイトの予定を見ると「12/6」になっています。12月6日は水曜日なので、この日程で決まると参加できそうにないです……。過去の例会や総会は土日に行っているので、16日 (土曜日です) の書き間違いだったらいいんですけど、これは正式な連絡待ちですね。

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2006年11月 1日 (水)

卒業論文を提出しました

構想1年、執筆半年。
歴史学のど素人が初めて書いた卒業論文が、ようやく完成しました。
11月10日必着なのですが、もう印刷してファイルに留めていますし、置いていても仕方がないので、忘れないうちに今日の昼休みに郵便局から発送しました。
締め切りが過ぎたら、ネット上でも公開する予定ですので、しばらくお待ちください。

この論文を作るにあたって、いろいろな経験をしました。
徳島に住んでいるのですが、ゼミのあった大阪はもちろん、奈良、福井、東京、そして山形まで行きましたし、遊戯史学会のみなさまをはじめ多くの方々に助言をいただきました。
読んだ本や資料も、ダンボールにいっぱいになっており、一息ついたら整理しないといけないなと思いつつも、そのままになっています。

余談。
前々から話はあったのですが、将棋博物館が閉館になっていました。
論文の導入部に将棋博物館のことを書いているのですが、閉館になったことは書けていません。このことを知ったのが印刷をすませたあとだったので、どのように修正するにしても全文の印刷をやり直さねばならず、面倒なので知らなかったことにしています。 (^^;)

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