書籍紹介

2008年6月22日 (日)

今谷明『戦国時代の貴族』

サブタイトルが「『言継卿記』が描く京都」となっているように、山科言継を中心とした文章となっています。大学院の研究で、言継卿記、言経卿記まで手を広げることになりましたので、現状入手可能な書籍ということで買い求めてみました。

まだざっと目を通しただけですが、言継に関連する多くの研究成果をまとめており、「言継卿記」そのものについて深く記述されたという性格のものではないようです。私の研究テーマである、将棋についての部分はほとんど言及されていない模様。

この書籍自体は2002年の出版ですが、底本は1980年に出版されたとのこと。作者の今谷氏は1942年生まれとなっていますから、38歳で本を出されたということになり、35歳の自分ももしかしたらあと何年か後には、という気分にはさせてくれます。といっても、今谷氏は歴史研究が本業でありライフワーク、私は歴史研究は趣味であり余暇ですから、寝ぼけたことを言っていてはいけませんね (笑) 。

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2008年2月11日 (月)

諸象戯図式

2月8日に東京出張が入ったので、ついでに国立公文書館に行ってきました。なぜこんなところに足を運んだかというと……。

今度の研究で、「後奈良天皇が酔象の駒を除かせた」がどこまで事実かも調べてみたいと思っています。この記述があるのが、『諸象戯図式』と『大橋家文書』なのですが、後者の原本が大阪商業大学アミューズメント産業研究所にもなく、確認できなさそうでした。

それで『諸象戯図式』なのですが、これがあるのが国立公文書館です。近代以降に活字化されたものはなく、版本が1組あるのみでした。あるだけマシなのですが、これを見に行く機会はそうそう訪れないだろうと思っていたので、行けるときに行っておこうということです。

国立公文書館の写真東京メトロの東西線竹橋駅で降り、西へ5分ほど歩いたところ、竹橋という橋を渡って近代美術館の西隣にあります。1階は明治維新以降の憲法などの制定に関する公文書を展示してあり、目的とする古い文書の閲覧は、許可を取った上で2階で行います。

所定の利用手続きを行って、目的の書籍を探し (閲覧室内のPCから検索できるようになっています) 、閲覧手続きを改めて提出して書籍を持ってきてもらいます。風邪気味でしたのでマスクを着けていましたが、必須ではなく、手袋もはめなくてよいということでした。

書写・翻字はOK。複写の手続きを取れば、コピーも可能です (専門業者に依頼し、後日郵送) 。マイクロフィルム化されていればその場で複写できるのですが、『諸象戯図式』はマイクロフィルム化されていませんでした。4冊本で、1冊目が自分の必要としていた部分、つまり各種古将棋の解説で、2冊目以降は中将棋の詰将棋が掲載されていました。1冊目は30ページほどの短い書籍でしたので、全冊複写の依頼を取りました。3000~5000円くらいの手数料はかかりますが、あやふやな知識で中途半端に翻字するよりは、それだけ払ってでも原本と同じものを手元に持っておきたいと思ったので。

敷居は高いのですが、極端に高いわけでもなく、研究目的を聞かれたり紹介状を求められたりすることもありませんでした。卒業研究のときにも一度行っておけばよかったかもしれない、と思っています。

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2007年11月23日 (金)

「遊戯史研究」19号と2007年冬の例会

昨日、遊戯史学会から学会誌が届きました。昨年の2回、夏冬の例会に参加させていただいたのですが、そのときに発表された内容も含まれています (増川先生「将棋の起源――四人制か二人制か」、清水康二先生「韓国遊戯暼見録」、草場純先生「現代におけるゲーム文化の交流について――「ヤポンブランド」の船出」) 。

このほかの発表では、増川先生のもうひとつのもの、大橋家文書の資料紹介が気になりました。内容は初代大橋宗桂にあてられた手紙4通の解説です。大橋家文書には将棋の起源 (後奈良帝の時代に醉象を除いて現在の形になった、云々) を記したものがあるので、自分の研究のためにもそれを見てみたいと思っています。

学会誌に同封されて、増川先生から手紙をいただきました。例会の出欠の返事に、「実隆公記」で修士の研究をやりますと書いたので、そのことについてのお返事で、よいテーマを選ばれた、とのことでした。修士の合格発表はまだですが (試験の報告は別の機会にします) 、十分に手応えはありましたので、修論の研究がうまく進められるようにがんばりたいと思います。

来週の土曜日、12月1日に、遊戯史学会の例会があります。講演テーマは、増川先生の「中将棋について」、酒井知幸さんの「高校生へのゲームに関するアンケートについて」の2つ。どちらも気になりますが、今回は時間の都合が取れず欠席となりました。ざんねん。

PS. この記事を書くのに遊戯史学会からの手紙を読み直していたら、振り込み用紙が入っているのに今頃気がつきました。……すみません、まだ年会費を納めていません。orz

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2007年10月20日 (土)

実隆公記と将棋について書かれた論文

大学院入試の小論文試験まであと1週間となり、受験票に貼り付ける写真を作ってきました。本屋の横とかにある、自動で撮影してくれるボックスだとたいがい失敗して変顔になってしまうので、カメラ屋で撮影してもらったのですが、最近はデジカメで証明写真を撮影するんですね。もちろん、現像機材が業務用のものですので、画質には問題ないのですが。

論文検索サイトをいくつか紹介してもらいました。

Yahoo! からリンクされている各大学のリポジトリを含めると、かなりの論文が検索できるようです。

国文学研究資料館のサイトから検索したところ、実隆公記の将棋について書かれた論文が1本見つかりました。内容によっては自分の研究の方向性を見直す必要があるので、少しあわてました。先行研究の調査が甘かったわけですし。

幸運なことに、別のところで論文全文が公開されており、それを確認することができたのですが、この論文は2000年に公開されたもので、将棋のルールよりも取り巻く環境 (対局者や観戦者の身分など) を、当時の社会のあり方に沿って書かれたものでした。自分の研究の参考にはなりますが、これまでの方向性を見直す必要はとくになさそうです。

執筆者の方の名前で検索したのですが、ほかに名前が出てこないんですよね。大学の学生か院生が書いた論文で、それ以降は研究を続けなくなったのかもしれません。そういう論文だとしたら、あまり重視しすぎることもないのでしょうか。資料の取捨選択には迷います。

PS. 試験もまだ受けていないのに、mixiに放送大学徳島学習センターのコミュニティを作ってしまいました。mixiにアカウントのある、放大徳島の所属者・関係者はよろしくどうぞです。

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2007年6月 9日 (土)

人物叢書「三条西実隆」

「実隆公記」の調査中ですが、日記そのものに当たるのが王道ではあるものの、作者である実隆のことをあまりにも知らなさすぎるため、彼について書かれた書籍を入手しました。

  • 芳賀幸四郎「三条西実隆」(1960年、吉川弘文館)

再版したもの (新装版) が1987年にも出ています (ISBN 4642050884) 。図書館では新装版、古書店で初版を入手しました。当然ながら、将棋については増川先生の書籍 (「遊芸師の誕生」) のほうが詳しいのですが、全体的なバックグラウンドはこちらのほうが詳しくなっています。

実隆は室町時代後期の公家で、すでに時代は戦国下克上の世になっていましたが、時代の流れについて行けず公家の復興をめざし、実際には何もできずに取り残された人物ということになります。これは実隆に限らず、公家全般にいえることなのですが。

実隆と将棋の関わりについては、駒の文字を書いたのが最初のようですが、文明13年 (1481年) にぽつんと記述があり、次に「初めて」駒を書いたのが明応5年 (1496年) となっています。明応5年の後は、将棋を指した記述が何度も出てきており、将棋という遊戯にのめり込んだように思われます。文明13年と明応5年の間の15年の記述を調査し切れていませんが、ここに何もないとすれば、最初の駒書きの記述がなぜここにあるのか、という疑問が出ます。

実隆日記についての論文や研究資料をほかにも見てみたいのですが、そうするには日本中世史の分野に深く足を踏み込むことになり、自分の研究がどこに行ってしまうのかという不安もあります。さて、どうしたものでしょうか。

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2007年5月13日 (日)

遊芸師の誕生 (増川宏一)

実隆公記つながりで、増川先生のこの本を取り上げます。卒業研究では読んでいなかった資料なのですが、

ネットで「実隆公記 将棋」で検索する
→丸谷才一の「男ごころ」に増川先生が何か書いているという記述にいきあたる
→図書館で「男ごころ」を探して該当の記述を探す
→「遊芸師の誕生」に書いてあることが判明

という流れになりました。

「遊芸師の誕生」の前半が実隆公記に関する記述になっています。自分がいま調べようとしていることがだいたい載っているようで、調べるところが難しくなっています。論文を書こうかと思ったのですが、この流れではまた却下っぽいです。

三条西実隆は中世の公家なのですが、増川先生の記述によると「地位と権勢をたのんで、強引な人事を進めようとした人物」という評価もあるようです。このあたりを掘り下げてみるのもおもしろいかもしれません (が、将棋の研究から離れてしまうかも) 。

その他、実隆公記の背景資料として、中世の日記資料や政治について書かれた書籍も2~3冊借りてきました。放送大学の五味文彦先生のものもあります。放送大学で大学院に進むとすれば、五味先生の指導を受けることになると思います。このあたりも含めて、もう少し時間をかけて調べてみる必要がありそうです。

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2006年9月26日 (火)

普通唱導集、その後

日曜日、5回目のゼミに行ってきました。
ゼミはあと1回、論文提出まであと1か月半になっています。

ゼミで、『普通唱導集』が書籍化されたことを先生に話したのですが、やはり何らかの形で原本を入手して参照すべきだ、ということになりました。
といっても、5500円の本だし、四国の図書館には置いていないし、コピーを依頼するにしてもどこをコピーしてもらうかわからないし、困ったのですが、よく考えたらゼミで大阪のど真ん中に行っているわけで、何とかなるはずです。

帰りのバスを1時間遅らせて、梅田の本屋を回ってきました。阪急の駅ビルの中には紀伊国屋書店が、少し歩いて東梅田まで行けば旭屋書店があり、どちらも十分大きな本屋です。
少しびっくりしたのは、店内に検索用の端末があり、在庫があるのか、あるのなら何階のどこにあるのか、すぐに調べられることです。図書館では同様のサービスを行っていますが、書店でもできるようになっているんですね。紀伊国屋で見つからず、梅田の地下街にあった別の書店にも無く、旭屋でようやくこの本を見つけたのですが、検索端末がなければ1時間で3店を回るのは無理だったと思います。
旭屋で見つけた『普通唱導集』を手に取り、コピーをお願いするページを控えて、書棚に戻しました (悪いコトしてますね ^^;) 。

で、今日 (月曜は放送大学がおやすみ) 、放送大学の学習センターに行って、書籍複製の申し込みをしてきました。コピー代と送料は有料ですが、それでも5000円と比べれば安くすむはずです。

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2006年4月28日 (金)

大内延介『将棋の来た道』『将棋の世界』

天童からの帰り、神保町のアカシヤ書店に寄ってきました。
ここは将棋と囲碁の古本を専門に扱っており、行くのは2回目になります。
(1回目は、店の場所も知らずに突撃したから、探し回ったあげく交番で道を聞きましたが)
将棋の本といっても、将棋の指し方や手筋や定跡を扱ったものばかりで、文化や歴史を扱ったものはごく少数なのですが、その中で1冊、大内先生の『将棋の世界』を購入してきました。
今回は『将棋の世界』と、前に買ってあった『将棋の来た道』をまとめて紹介します。

プロの棋士で将棋の歴史を研究しているのは、木村先生と大内先生くらいで、あとの方は将棋を指すか普及させるかに専念していますね。(飯田先生はコンピュータ将棋の専門家になってしまいましたが)
大内先生は、実際にアジア各国の将棋類を指すために現地に行き、将棋とマークルックの共通点を見いだして「将棋は東南アジアから伝来した」という考えを持っているようです。
マークルックとの共通点ですが、(1)前3方と斜め2方に進める駒 (銀将の動き) があること、(2)兵に相当する駒を3列目に並べること、があげられます。飛車角行のなかった二中歴の将棋と比べると、さらによく似ていると感じられます。
持ち駒については、いつ日本将棋に導入されたかは、何もいっていません。もちろん、マークルックにも持ち駒はありませんし。

『将棋の世界』は、1章で将棋の伝来、2~3章で江戸時代の家元、4章以降は近代から現代の将棋について書かれています。読み物としてはおもしろかったのですが、研究の役に立つかといえば、ちょっと微妙。

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2006年4月 5日 (水)

将棋雑考

幸田露伴の『将棋雑考』(將棋雜考)、図書館から全集を借りてきて読んでみました。
書かれたのが明治33年9月となっているので、西暦に直すと1900年。100年以上、世紀でいうと2つ前のものなので、かなり読みづらいです。
外来語の表記も現在のものとは違っていて、ひらがなで書かれています。将棋の源流とされる「チャトランガ」が「ちゃつらんが」だったり。

シャンチー(雑考の中では「支那将棋」)のもっとも古い資料とされる、牛僧孺の「玄怪録」の記載も出ていました。原文をどこかから探してこなければならないかと考えていたので、結構助かります。

寳應元年汝南岑順、夢一人被甲報曰、金象將軍與天那賊會戰、順明燭以觀之、
夜半後東壁鼠穴化爲城門、有兩軍列陣相對、部伍既定、軍師進曰、
天馬斜飛度三疆、上將横行撃四方、輜車直入無廻翔、六甲次第不乖行、
於是鼓之、兩軍倶有馬、斜去三尺止、又鼓之、各有一歩卒、横行一尺、
又鼓之、車進、須臾砲石亂下、云々、後家人覺其顏色慘悴、因發掘東壁、
乃古冢有象戯局、車馬具焉。

あと、産経新聞の「はじめて書かれる地球日本史」に紹介されていたのですが、
シャンチーが現在の形になる前のものが日本に伝わったと考えていたらしいです。
この意見には私もうなずけるものがあります。
というか、自分が新説として書いてみようかなと思っていたのに……。

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2006年4月 2日 (日)

将棋の民俗学

天狗太郎『将棋の民俗学』を読み始めました。
1992年の本で、そのあとの知見は含まれておらず、興福寺の将棋駒などについては言及されていないのですが、一乗谷の朝倉駒の記述は入っているので、資料として使えないものではなさそうです。

天狗氏は将棋は中国大陸を経由して日本に伝来したと考えているようです。理由としては日本・中国・韓国の将棋の駒が文字を書いた形状で、そのようになっている将棋・チェス類は他に存在しないということ。ルールの違いというのはどのように考えておられるのでしょうか。

また、朝倉駒にあった「醉象」にも言及しています。醉象は現在の将棋にない駒ですが、成ると「太子」となり、玉将と同じ働きをします (玉将が2枚になります) 。現代将棋から醉象がなくなった理由として、戦国時代、1つの国に2人の王はいらないということから、2人目の王となる醉象・太子が取り除かれ、それによって持ち駒のルールが適用可能になったとしています。

まだはじめのほうしか読んでいないのですが、ほかに気になったのが、『鳥獣戯画』の将棋を指している場面を取り上げていることです。盤の大きさが7×7とも9×9ともされているのですが、いずれにしても絵なので、それほど厳密に描かれているわけではないと思うのですが。

ところで、天狗太郎 (山本亨介) さんって、まだご存命でしたでしょうか。1923年生まれということですので、現在83歳ということになりますが。

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