"Wikipedia - たまご915のWikiBlog"

2011年6月 5日 (日)

[Wikipedia]多重アカウントとか管理者への信頼とか

少し前の話になりますが、多重アカウントの利用に対する規制が厳しくなっています([[Wikipedia:多重アカウント]])。
もともとは荒らし対策で、荒らしを行う人間が自分を特定されないよう、過去との連続性のないアカウントを取得し、そのアカウントで荒らし行為を行ってアカウントを放棄する(捨てアカウント)行為を認めないための規制強化だといえます。
この結果1ユーザー1アカウントの原則が強化されたわけで、たとえば以前は自分のアカウントと似た文字列を、悪用の予防のために前もって取得しておくこともありましたが、これも1ユーザー1アカウントの原則に反するものとして、告知するよう求められるようになりました。
それともう一つ、ネットワーク越しにはユーザー単位での識別が容易ではなく、ウィキペディアでは接続IPアドレスなどの情報をユーザーの同一性の判断に使っているとされています。そのため、同じIPアドレスから自分以外のユーザーが接続していることがわかっている場合も、その事実を公表することになりました。
ここまでを前提として、ある「事件」が起こっています。

[[Wikipedia:コメント依頼/婚姻・それに準じる場合のCU権限について]]
[[Wikipedia:コメント依頼/Carkuni 欅]]
ウィキペディア利用者の2人が結婚されて、同じ接続環境になったわけですが、そのことの公表が遅れたこと。さらにその2人がともに管理者権限を持っており、片方はチェックユーザー(上で「CU」とあるのはこれのこと。利用者の接続環境を知り、調査することができる)でもあったため、CU自身が多重アカウントの疑惑を持たれてよいのかという疑念が生じました。
結果、当事者の2人は管理者・CU権限を返上、議論に関わった他の管理者やCUも、CUの相互チェックが働かない、管理者としての信頼を失わせたなどの理由で、あわせて少なくとも4人が辞任する形となっています。

ウィキペディアの投稿から離れて2年になるし、今回の議論にも全く関わっていないのですが、何をやっているのだろうか、というのが正直なところ。明らかに誰の利益にもなっていない方向に議論が向かってしまい、自分たちの作ったルールに自分たちが縛られて勝手に困っている、といったようにしか見えませんでした。
そもそもウィキペディア利用者同士が結婚したからといってその事実を公にする必要があるかというと、その必要性を求める現行ガイドラインが厳しすぎるのだろうということになります。荒らし対策として、1ユーザーが複数のアカウントを持つことに対する制限なのだから、別々のユーザーであることがほぼ明らか(投稿傾向が全く異なるなど)な複数のアカウントに対してまで、多重アカウントの制約を求めることが果たして意味があるのかどうか。
そして、当事者が自分たちがどうしたいのかという意図を示さなかったことで、問題がこじれた感があります。婚姻の事実を公にしてよかったのか、管理者権限を継続して保持していたかったのか、ウィキペディアの編集は継続するつもりなのかどうか。「結婚したため管理者同士が同じ接続環境になるが、問題のある管理行為はしないつもりなので管理者権限を継続して保持したい」といった意思表明が早い段階であれば、同一接続環境にある複数の管理者が起こす問題ある管理行為とは何か、という方向での議論になったかと思いますし、誰もやめることにはならなかったのではないでしょうか。
余談になりますが、管理者間で示し合わせて都合のよい形で記事を編集保護したり特定のユーザーをブロックしている、という疑念が時々立ち上がります。ですがこのことは、その管理者が同一の接続環境にあろうがなかろうが発生する事例なので、今回の問題とは切り離すべきでしょう。
また、結婚したことで、お互いをミートパペット(冒頭の「多重アカウント」の解説中に説明がありますが、自分の意見を多数派に見せるために動員する他のユーザーのこと)にする可能性もあるのかもしれません。これは接続環境とは関係ないし、議論においてお互いの意見は独立した立場でのものであることを宣言する(必要によっては、同じ議題に両方が参加しない)という形で避けられたことだと思います。

対応のまずさが問題を大きくしてしまい、その当事者が管理者であったことで、管理者への信頼を大きく損ねてしまったのではないかと思います。
ウィキペディアの「管理者」の立場ですが、議論のとりまとめや荒らし行為の予防的措置など、経験と能力のあるユーザーの代表として、ウィキペディア全体を守るという考え方と、記事削除やユーザーの投稿ブロックなどの権限を与えられたに過ぎず、一般のユーザーが出した結論に従って問題となった記事などに対処する役割に徹するべきだという考え方があります。
日本語版では前者の考え方で進めてきましたが、これは管理者に対する信頼があってのこと。管理者の信頼が損なわれている現在、ユーザーを信頼して(荒らしもいますし、これが不可能なくらい難しいのは承知の上ですが)後者のやり方に舵を切るか、管理者の信頼回復のためにあらゆる手段を執る必要があります。
正直言って、どちらの方策も取れず、プロジェクトが失敗してもかまわないと考えています。それはウィキペディアの失敗ではなく、日本語版の方針の失敗であり、そもそもの目的――百科事典を作ること――に立ち返ることで、本来あるべき方針を作り直すことができる機会だともいえるからです。

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2011年3月 5日 (土)

[Wikipedia]特筆性

ウィキペディアでは、メインページにあるように、「方針に賛同していただけるなら、誰でも記事を編集したり新しく作成したりできます」とあるわけですが、この方針が結構くせ者だったりします。くせ者というとあれかな。十分に理解されていないというべきかなと。

方針(厳密に言うと、方針の草案を含んでいます)の1つに、「特筆性」という基準があります。ようは一般人や無名の団体・企業の記事を作らないでほしいということなのですが、知らないでやってしまうのかいたずらなのか、自分や友人の名前で記事を作ってしまうことがよくよくあります。
客観的に見て、明らかに一般人である場合は削除されるという結論に議論を待たないのですが、難しいのはインディーズバンドであったり、無名の団体や企業であったり、同人誌や自費出版の作者の記事。記事を作成する人は特筆性があると思っていても、ウィキペディアの基準ではそうはならない、という例には枚挙にいとまがありません(削除依頼を覗いてみてください)。

ここからは自分の思い込みかもしれませんが、ウィキペディアで宣伝や売名行為をされるのが嫌で(広告記事は削除対象ですが)、特筆性を盾に無名な団体や人物の立項を認めない立場や、それが許されるならあれも許されるが、ウィキペディアはインディーズバンド(でもアマチュアの野球選手でもなんでもいいのですが)の名鑑ではないので認めないという立場もありそうです。
そうなると、特筆性という基準を持ち出すのはちょっと違うんじゃない?という違和感を持ってしまうわけです。売名や分野の偏りを認めない立場で記事の立項を制限するのであれば、そのような方針を作るのが筋であって、特筆性云々で網をかけるのは適切ではないように思うのです。

そもそも、特筆性という基準はいらないのではないかと考えています。
どんな記事を立項してもいいという意味ではなく、別の方針である「信頼できる情報源」からの言及を示していない記事の存在を認めないことで、基準は維持されると考えています。
言い換えれば、特筆性の基準を「信頼できる情報源からの言及があること」に単純化してしまうということです。できれば複数の情報源からの言及を求めたいですが、一足飛びにそこまで引き上げるのは厳しいかな。

宣伝や売名で記事をたてられても、いいじゃないですか。作成者の意図通りに記事が書かれるわけではなく、より中立で客観的な方向、ときには厳しい批判的記述が入るような形で改変することができますから、そこでバランスが取れるはず。
つまりは宣伝で記事を書くことはできませんよ、というのを、記事の削除ではなく内容の修正で行っていくことが、記事を質量ともに高める結果になるといいたいのです。

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2011年1月14日 (金)

[Wikipedia]私がWikipediaに書かなくなった理由

Wikipedia(日本語版)の私の投稿記録を見ていただければわかると思いますが、2009年5月から1年半以上、書き込みを行っていません。
自分がいなくなったからといって、ウィキペディアが変わるわけでも、ましてやダメになるわけでもなく、同じように運用されていくわけです。ある意味寂しい気もしますが、考えてみれば当然ですね。自分にそんなに影響力があったはずもないし、もし自分に影響力があったと思っていたとすれば、それは大いなる勘違いでしかありません。

記事を書かず、方針の議論や他の利用者のコメント依頼にばかり顔を出してしまうと、そのあたりの勘違いが起こってしまうのかもしれません。
たとえば、何か議論があって、自分の主張に近い形でまとまったとすれば、自分の力で議論を動かしたような感覚にとらわれるのでしょう。その当然の帰結として、ほかの議論でも自分が議論をまとめられると思い込んで参加してしまう。結果、ろくに貢献もしていないのに、議論にくちばしを挟む利用者として認知され、場合によってはウィキペディアを追われるようになる。
そういう利用者が何人かいたことは事実といってよいでしょう。

さて、私がウィキペディアを離れた理由ですが、大きくいって2つあります。
1つは記事の加筆で貢献する部分がなくなってきたこと。自分の興味ある分野は加筆が進み、このあときちんとした内容で加筆しようとすれば、加筆内容の裏付けとなる文献調査に多くの時間を必要とするため、自分の能力を超えてしまったといえます。
図書館で借りてきた本に書いてあった内容をちょこちょこ書き足していけば済むようなレベルではなく、記述の対象について体系だった知識がないと、まともな記述はできないように感じています。
(そこまでの意識も覚悟もない利用者の記述に指摘を入れることならできますが、それは他の利用者を萎縮させるだけで、ウィキペディアの質を高めることにはならないと思います。)

上の理由が大きな理由ですが、もう1つあげるとすれば、編集方針というか、管理体制について自分と意識がずれてきてしまった、ということがあります。
ウィキペディアは誰でも書き込めるメディアであり、それゆえに宣伝目的や荒らしでの書き込みが絶えず、宣伝や荒らしが記事の質を落とすという面はあります。そのため、彼らには投稿ブロックを含め、「一切の記述をさせない」という強い態度で臨んでいるのが現状です。これは、自分がウィキペディアを離れる前から変わっていません。
ただこの態度が、ウィキペディアに閉塞感というか、編集時の堅苦しさを生んでいるように思います。自分はそれがいやでウィキペディアを離れたわけですが、ある一定の規模を超えたコミュニティでは必ず起こることで、自由な雰囲気とコミュニティの質を両立させるのは、そもそも不可能なのでしょうか。

自分の理想としては、体裁を伴っていなくともある情報が記述されれば、編集に慣れた人がその記述を体裁の整った形に整形し、また別の人が質を高めるための肉付けを行う、そのプロセスの繰り返しで記事が成長し、議論は細部の調整できなものに限定されるというものです。
まあ、自分の中での理想でしかないし、実現したところでウィキペディアとして正しい姿ではないのでしょうけれど。

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